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中国ドラマ『武則天ぶそくてん-The Empress-』 李治は史実によるとこんな人物!?

中国ドラマ『武則天ぶそくてん-The Empress-』 李治は史実によるとこんな人物!?

中国ドラマ『武則天ぶそくてん-The Empress-』では、唐高宗・李治(りち)が登場しますが、多くの視聴者にとっては「武則天ぶそくてんに支配された頼りない皇帝」というイメージが強いかもしれません。しかし、史実を詳しく見てみると、李治は決して単なる傀儡ではなく、政治的な才覚を持った皇帝でした。特に、国外の史書では彼を高く評価する記述もあり、従来のイメージとは異なる一面が見えてきます。

李治:誤解された皇帝

李治(字:為善)は、唐の第三代皇帝であり、唐太宗・李世民の第九子です。彼は貞観十七年(643年)に皇太子となり、貞観二十三年(649年)に即位しました。しかし、歴史書の多くは彼を「気弱で、重臣に操られた皇帝」と描いています。特に即位当初は、長孫無忌や褚遂良らの強い影響を受けていたため、そうしたイメージが定着しました。

しかし、これらの評価は必ずしも公平ではありません。彼は後に独自の統治を進め、武則天ぶそくてんを皇后に迎えるという大胆な決断を下しました。これが結果的に中央集権の強化につながり、唐朝の発展に寄与することになります。

政治手腕と功績

1. 武則天ぶそくてんを皇后に立てる

永徽六年(655年)、李治は王皇后を廃し、武則天ぶそくてんを皇后に迎えました。これは単なる愛情の問題ではなく、朝廷内の旧勢力を抑えるための戦略的な決断でした。これにより、武則天ぶそくてんが台頭し、中央集権が強化されました。

2. 吏治改革の推進

李治は、地方豪族の力を抑え、官僚制度を整備することで、より効率的な統治を目指しました。彼は「三省六部制」を明確化し、各部署の権限を整理することで、行政の円滑化を図りました。また、有能な人材を積極的に登用し、狄仁傑や張柬之などの名臣を抜擢しました。

3. 領土拡大と国防強化

李治の治世では、唐の版図が最盛期を迎えました。西突厥(657年)、百済(660年)、高句麗(668年)を次々と征服し、唐の勢力をアジア全域に拡大しました。また、国境防衛にも力を入れ、北方の都督府制度を整備し、周辺諸国との外交関係を強化しました。

国外史書が評価する李治

李治に対する国内の評価は賛否が分かれるものの、国外の歴史学者は彼の功績を高く評価しています。

  • イギリスの歴史学者ジョン・マーシャルは、「李治は単なる政治家ではなく、優れた戦略家でもあった。彼の治世により唐の版図は最大規模に達した」と述べています。
  • アメリカの歴史学者・フェアバンクは、「李治の統治方針は先見の明があり、彼の改革が唐朝の安定に大きく貢献した」と評価しています。

まとめ

中国ドラマ『武則天ぶそくてん-The Empress-』では、李治は「武則天ぶそくてんの影に隠れた存在」として描かれることが多いですが、史実に基づく評価は異なります。彼は優れた政治手腕を持ち、果断な決断を下し、唐の安定と繁栄に貢献した皇帝でした。

国外の史書においても、彼の治世の重要性が強調されています。ドラマを視聴する際には、この史実を踏まえながら、李治の人物像を再評価してみると、より深い理解が得られるのではないでしょうか。