西郷隆盛と大久保利通は、薩摩藩出身であり、幼い頃から家も近く、幼なじみのような存在でした。彼らは共に幕末の動乱を切り抜け、明治政府樹立に貢献した立役者でしたが、最終的には別々の道を歩むことになりました。
以下は、彼らの友情と決別についての詳細です:
1. 同じ藩のご近所出身: 西郷隆盛と大久保利通は、同じ薩摩藩の下加治屋町で生まれました。家は通りを隔てて隣同士であり、幼馴染でした。年齢的には西郷隆盛の方が3歳年上でしたが、2人はお互いを認め合い、やがて親友・同志となりました。
2. 大久保利通が西郷隆盛を島から呼び戻した: 成長した彼らは幕末の名君である薩摩藩藩主の島津斉彬に仕えることになりました。西郷隆盛は斉彬を心から尊敬しており、斉彬が病死した際には後を追おうとするほどでした。しかし、斉彬の後を継いだのは弟の島津久光であり、2人は対立します。大久保利通は西郷隆盛を島から呼び戻すために尽力しました。その説得がなければ、西郷隆盛は明治維新や明治政府に関わることもなかったかもしれません。
3. 対立のきっかけは「征韓論」: 二人の友情は「征韓論」を巡って対立しました。西郷隆盛が唱えた征韓論は、朝鮮に対して軍隊を送り開国を迫るものでしたが、大久保利通はこれに反対しました。この対立が次第に拡大し、最終的には西南戦争へとつながりました。
まとめると、大久保利通と西郷隆盛は互いに信頼しあっていたが、歴史的な出来事や意見の相違から対立し、最終的には別々の道を歩むことになりました。