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大河ドラマ『花の乱』 日野富子と足利義政の関係は?

日野富子足利義政の関係は、非常に複雑で波乱に満ちたものでした。二人は1455年に結婚し、富子は義政の正室となりました。当初は夫婦仲は良好だったとされていますが、時間が経つにつれて関係は冷え切っていったようです。

 

富子は嫉妬深い性格で知られ、義政の側室を追放したり、金銭的な利益を追求することで知られていました。応仁の乱の際には、東軍と西軍の両方に金を貸し付けるなどして莫大な資産を築き上げたと言われています。しかし、この行動が民衆の反感を買い、一揆を引き起こす原因ともなりました。

 

また、富子と義政の間には子供がいましたが、その中でも特に注目されるのは足利義尚です。義尚は富子と義政の間に生まれた息子で、後に9代将軍となりますが、彼の政治的な権力は主に富子と義政によって握られていました。義尚が若くして亡くなった後、富子は義政と共に新たな将軍を選定するなど、政治的な影響力を持ち続けました。

 

義政と富子の関係は、政治的な面では協力し合っていたものの、個人的な面では疎遠になっていったと考えられています。特に、義政が富子と別居し、聖護院の別荘に移り住んだことは、二人の関係の冷却化を象徴する出来事でした。

 

このように、日野富子足利義政の関係は、愛情、政治、金銭、そして権力といった複数の要素が絡み合う、非常に複雑なものであったと言えるでしょう。二人の関係は、室町時代の政治史を理解する上で非常に重要な要素の一つです。

 

日野富子足利義政の他の側室たちとの関係は、良好とは言えなかったようです。富子は嫉妬深い性格で知られており、義政の側室たちを追放することもありました。例えば、最初の子供が夭折した際には、義政の乳母である今参局を呪いをかけたと疑い、彼女を流罪にしたほか、義政の4名の側室を追い出したと言われています。

 

また、応仁の乱の際には、富子は東軍の細川勝元、西軍の山名宗全の両方にお金を貸し付けるなどして莫大な資産を築き上げましたが、この行動が民衆の反感を買い、一揆を引き起こす原因ともなりました。このような背景から、富子と他の側室たちとの間には緊張関係があったと考えられます。

 

富子の行動は、彼女自身の権力と財産を守るためのものであり、他の側室たちとの協調よりも自己の地位を優先する傾向があったと言えるでしょう。そのため、側室たちとの間に友好的な関係が築かれていたとは思われません。日野富子の強い個性と野心が、彼女の人間関係に影響を与えたと言えるでしょう。