毛利元就が活躍した時代背景は以下の通りです:
戦国時代の始まり:
元就が生まれた1497年は、京都で応仁の乱が終わり、細川政元、日野富子が主導したクーデター「明応の政変」が起こった時代です。戦国時代は一説にこの明応の政変から始まったとされており、戦国時代の始まりに毛利元就は生まれました。
中国地方の勢力争い:
元就の時代の中国地方には、尼子氏と大内氏という2大大名の下に、元就のような国人勢力がひしめき合っていました。元就は、国人と大名という2種の勢力に対して、立ち回る必要がありました。国人に対しては、強大な勢力であれば婚姻関係を結ぶことで勢力を広め、弱小勢力であれば武力を持って制圧し、家臣として取り立てる戦略を取りました。
毛利氏の勢力拡大:
元就は瀬戸内海の水運を握る大内氏と、山陰の鉱山利権を握る尼子氏とを互いに争わせ、巧みに利用しながら勢力を拡大しました。中国地方の大半を自身の領地とし、後の戦国大名が手本とした大名でした。
政治・外交戦略:
元就は戦を優位に進める戦術家としての素養だけではなく、政治家としての対外外交による戦略家としての素養を合わせ持っていました。大内氏に対しては嫡男の隆元を人質に差し出し、晴賢に協力する形で争いに参加し、晴賢を孤立させ厳島の戦いで殲滅しました。その後、大内氏は内部分裂を起こし、且山城の戦いで滅亡しました。尼子氏も内紛が相次ぎ、月山富田城の戦いで元就に攻められ滅亡しました。
これらの背景により、毛利元就は一代で安芸国の国人領主から、芸備防長雲石の六ヶ国を支配する太守へとのし上がりました。また、元就の子孫は長州藩の藩主となり、江戸幕府の倒幕に成功した長州藩の祖としても知られています。